2017年8月27日日曜日

ゴールデンカムイ アシリパさん扉絵即堕ち2コマ集

アシリパさん扉絵即堕ち2コマ集
第5話を除き、基本的には扉絵→次ページで落ちる構成になっている

第5話リス




第8話ウサギ




第14話ニホンカワウソ




第36話 白石




第63話 アザラシ


2017年8月26日土曜日

ゴールデンカムイの登場人物モデル&元ネタ集(死んでいった脱獄囚編)


悪夢の熊撃ち:二瓶鉄造

モデル:三毛別羆事件 山本兵吉

山本 兵吉、日本の猟師。
三毛別羆事件のヒグマを退治するなど、生涯で捕ったヒグマは300頭といわれる。
1915年12月9日、北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢で、開拓民7名がヒグマに殺される三毛別羆事件が発生した。 兵吉は大勢の隊員とは別の道から山に入ると、200メートルほど手前から頂上付近のミズナラの大木で体を休めているヒグマを発見、20メートルほど前進するとハルニレの木に身を寄せ銃を発砲、ヒグマの心臓近くに命中した。しかし、ヒグマは立ち上がり兵吉をにらんだため2発目を発射した。その弾は頭を貫通したという。午前10時、7人を殺害したヒグマは兵吉によって命を絶たれた。 兵吉の活躍は吉村昭の小説「羆嵐」で山岡銀四郎として大きくとりあげられた。
 その後兵吉は三毛別に家を建てて、事件前に住んでいた鬼鹿村から家族を呼んで暮らしていた。 兵吉は酒を呑んでは妻を殴るので、妻が子供を連れて鬼鹿村へ帰ることはしょっちゅうだった。 小説などでは大変素行の悪い人物と描かれることが多いが、孫で初山別村の豊岬郵便局に勤める山本昭光によると、酒を呑むと荒れることもあったというが、いつもは優しく面倒見のいい人物だったとのことである。




殺人鬼:辺見和雄

 モデル:連続殺人鬼 ヘンリー・リー・ルーカス


ヘンリー・リー・ルーカス、アメリカ合衆国の連続殺人犯。全米17州で300人以上を殺害していると言われる。著名なシリアルキラーの1人であり、トマス・ハリスの作品に登場する連続殺人者、ハンニバル・レクターのモデルの1人。
仮釈放委員会で「釈放されたら、自分は必ず人を殺す」と明言していたにもかかわらず、彼は釈放された。仮釈放審査の面談で委員のひとりから、「君は釈放されたら本当に人を殺しますか?」と尋ねられたヘンリーは、「はい。私は釈放されたら間違いなく人を殺します」と言ったが、委員たちはこれをジョークと受け取った。そしてヘンリーは、自らの予言通りに、刑務所を出て数ブロックのところで女性を絞殺し、金品を強奪した。
ヘンリー曰く
「殺人は息をするのと同じだった。」とのことだ。
ちなみに辺見の股間が光る様子については作者がTwitterにて「Electric Six」"Danger! High Voltage"(←動画)のイメージと述べている。


ミスター極道:若山輝一郎

外見のモデル:俳優 若山富三郎

名前のモデル:俳優 若山輝一郎(若山富三郎の実子)


若山富三郎、日本の俳優・歌手・テレビドラマ監督。
数多い時代劇俳優の中にあって殺陣が最もすぐれた俳優と評された。
親分肌で、気に入った役者やスタッフらを取り巻きとして公私に関わらず引き連れていたため、いつしか「若山組」と呼ばれるようになった。面倒見のいい反面、非礼な態度や意にそぐわない相手には手を上げることもよくあり、自分より格下と思われる相手からは「若山さん」ではなく「若山先生」と呼ばれない限り、返事もしなかった。大部屋俳優等、弱い立場の人に対してだけでなく、撮影スタッフや監督、大映時代には会社幹部にまで暴力をふるうことがあったため恐れられていたが、子役に対しては優しかった。




賭場の匂いにチクビが疼く

壺振り:仲沢達弥

外見・名前のモデル:仲代達矢



仲代 達矢、日本の俳優。無名塾主宰。
温厚な性格で知られるが、若き日には共演者の三船敏郎や萬屋錦之介と酒を飲んで、演技論を戦わせた末にケンカした、という血気盛んな逸話を自ら語っている。丹波哲郎は「ケンカが強いのは仲代」と述べていた。映画『黒い河』『椿三十郎』『鬼龍院花子の生涯』など傲岸な役も多かったが、素顔は前述通り温厚。数々の女優達とも共演してきたが、『さんまのまんま』では「女優さんって、みんなどうしてあんなに強いんだろうねぇ…」と語っている。
(正確には脱獄囚ではありませんが若山とセットということで解説にいれました。)



詐欺師:鈴川聖弘

モデル:伝説の結婚詐欺師「クヒオ大佐」 鈴木和弘

鈴木和弘、アメリカ軍の特殊部隊のパイロットと偽り、女性たちから約1億円を騙し取った実在する結婚詐欺師。
自分のことを「ジョナサン・エリザベス・クヒオ大佐」と名乗っていた。
ターゲットとなる女性にはこう持ちかけたという。
・私と結婚すれば、軍から5000万円の結納金が支給される。
・またイギリス王室からも5億円のお祝い金が出る。
・ウェディングドレスはダイアナ妃のドレスも手がけたデザイナーに依頼して製作してもらう。
・結婚式は故郷のハワイで盛大に行い、仲人は田中真紀子、司会はKONISHIKIに依頼して快諾してもらっている。
その一方で、次のような点も見られたという。
・「USAから発行されたという公文書」を見せるが、すべて日本語で書かれていた。
・ジェット機に乗っている写真なども見せてくるが、ぼやけているのと写真が古すぎておかしい。
・突然ポケベルが鳴り出し、無線機のようなもので片言の英語でやり取りを始める。
・年齢は37歳と言い張るが、見かけはそれよりかなり年上であった。
・ハーフにしても、平均的日本人よりも背が低めであった。

後に本事件を元に小説・映画が作成された。



贋作家:熊岸長庵

モデル:藤田組贋札事件 熊坂長庵(冤罪説有)


熊坂長庵、明治15年、藤田組贋札事件の犯人として逮捕され、無期徒刑(無期懲役)を受け北海道の樺戸集治監に収監される。その4年後に獄死。長庵は冤罪の疑いが濃いとする説もある。
長庵も暮らした熊坂家の邸宅はその後、東京裁判で免訴となった大川周明の手に渡り、大川が亡くなるまで居住した。現在「古民家山十邸」として無料公開されている。



稲妻強盗:坂本慶一郎&蝮のお銀

坂本のモデル:稲妻強盗 坂本慶次郎

お銀のモデル:毒婦 鬼神のお松

夫婦強盗としてのモデル:強盗夫婦 ボニー&クライド



坂本慶次郎、明治時代の日本の強盗常習犯。坂本啓次郎とも。 足が驚くほど速く、1日に48里も逃げのびた、またその犯行の行動範囲の広さから「稲妻小僧」「稲妻強盗」という異名を持つ。
幾度かの犯罪の後、逮捕。出獄後も犯行を重ねたため、再逮捕後の明治21年に無期徒刑の判決を受けて北海道の樺戸集治監へ押送された。しかし数度の脱獄を企て、明治28年9月に外役中に逃走。関東に舞い戻り、傷害や強盗、強姦を重ねつつ、奪った金で遊郭で豪遊するなどしていた。この間、伊藤博文の落胤を自称するなどしていた。明治32年(1899年)2月14日に、埼玉県北葛飾郡幸手町にて逮捕。同年10月6日に水戸裁判所似て死刑宣告、明治33年(1900年)2月17日、市ヶ谷監獄支署にて絞首刑に処された。 警察が把握している被害件数は45件、奪った金は700円余り。 死者3人、重傷者13人。

鬼神のお松、歌舞伎・読本・錦絵などで石川五右衛門、自来也と並び、「日本三大盗賊」として描かれる女盗賊。根本資料が乏しく、架空の人物と考えられている。
明和4年、仙台藩士・早川文左衛門と仕官を望む浪人の山木伝七郎が仕合い早川が勝った。恨みに思った山木は仲間の立見丈五郎、部賀九兵衛、稲毛甚斉に声をかけ、帰城する早川を襲撃した。しかし、立見、部賀は返り討ちにされ、稲毛は京都に逐電した。
殺された立見の妻、お松は復讐を決意し稲毛の助太刀を得るために京都に向かう。稲毛は快諾したが、にわかに助平心を起こしお松に迫る。拒むお松が振り回した懐剣が稲毛の胸に刺さり稲毛は落命してしまう。
お松はひとり仙台に戻り、巧みに早川に近づいて陸奥国一関への旅に誘い出した。衣川を渡る時に色仕掛けで背負ってもらい、背中から刺して川に蹴りこみ本懐を遂げる。
その後、一関の北にある金岳山で三島権左衛門率いる20余名の盗賊に囲まれるが、巧みに権左衛門を倒し盗賊団の頭目に収まる。そして、手下を率いて近隣の村々を略奪して回り「鬼神のお松」と恐れられようになった。
天明3年3月7日、仇と狙う早川文左衛門の遺児・文次郎に金岳山で討たれる。




ボニーとクライドは、1930年代前半にアメリカ中西部で銀行強盗や殺人を繰り返した、ボニー・パーカーとクライド・バロウからなるカップルである。
ルイジアナ州で警官隊によって射殺されるまで、沢山の殺人に関与し、数え切れないほど多くの強盗を犯した。当時のアメリカは禁酒法と世界恐慌の下にあり、その憂さを晴らすように犯罪を繰り返す彼等の事を凶悪な犯罪者であるにも拘らず、新聞も含めて英雄視する者も多かった。後にボニーとクライドの犯罪は何度か映画化された。
逃走中、仲間を次々失いながらも逃げ続けていたボニーとクライドだったが、1934年5月23日、ルイジアナ州ビヤンヴィル郡アーケディアの寂れた道路を1934年式フォードV8に乗って走行中、行方の情報を掴んで待ち伏せしていたテキサス・レンジャー4名およびルイジアナ州警察の警官2名から、短機関銃で150発以上もの連射を受けた。ボニーとクライドは車で逃げ去ろうとしたが、車体を貫通してきた80発余りの銃弾を浴びて死亡(車に命中した弾丸の数については諸説ある)。車内からは軍の兵器庫からの盗品であるブローニングM1918自動小銃をはじめ、ショットガン、大型拳銃など、殺傷力の高い強力な銃器類が多数発見された。
二人の遺体はダラスにそれぞれ別に埋葬されている。





すごーい君は変態ケモノフレンズなんだね

ウコチャヌプコロ:姉畑支遁

モデル:アーネスト・トンプソン・シートン


アーネスト・トンプソン・シートンはイギリス出身の博物学者、作家、画家である。
日本では『シートン動物記』で有名である。また挿絵も画家であるシートン自身が描いており100点をこえる挿絵は、物語をいっそう魅力的にしている。ボーイスカウト運動の創生に大きな影響を与えた人物でもある。
なお、ヒグマとウコチャヌプコロしたといった逸話は存在しない。


ゴールデンカムイの登場人物モデル&元ネタ集(土方歳三陣営編)


幕末のバラ餓鬼:土方歳三

モデル:新撰組副長 土方歳三  

土方 歳三、幕末期の幕臣、新選組副長。
 新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として数々の事件で武名を顕し、また隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長と称され、剣豪揃いの隊士たちに恐れられた。
 戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。
明治2年5月11日、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭防衛戦で、狙撃を受け戦死。享年35。
箱館五稜郭防衛戦の際には新政府軍艦「朝陽」が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機会を逃すな!」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、
「我この柵にありて、退く者を斬る!」と発した。
ちなみにゴールデンカムイのオマージュ元と言われている「手塚治虫」の作品「シュマリ」においても土方歳三が集治監(監獄)に囚われて生存していた。




ガムシン:永倉新八

 モデル:新選組最強剣士 永倉新八


永倉新八、幕末の武士(松前藩士、新選組隊士)
松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番隊組長及び撃剣師範を務めた。明治期に杉村義衛と改名し、樺戸集治監の撃剣師範を務めた。
新選組の組長格の中でも屈指の剣腕を誇り、阿部十郎は後年、「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」と語っている。「龍飛剣」と称する下段の構えから上へ敵の剣を擦り上げながら下へ切り落とす技を得意としていた。
我武者羅な性格だったので、「我武者羅」と「新八」を合わせ「がむしん」と呼ばれていた。



不敗の牛山:牛山辰馬

名前と見た目モデル:鬼の牛島 牛島辰熊

人物像のモデル:鬼の木村 木村政彦

牛島 辰熊、日本の柔道家。段位は講道館柔道九段。大日本武徳会柔道教士。
明治神宮大会3連覇、昭和天覧試合準優勝。その圧倒的な強さと気の荒さから「鬼の牛島」と称された。柔道史上最強を謳われる木村政彦の師匠として有名だが、牛島自身も木村に負けぬ実績を持つ強豪であった。


木村の練習量にはその激しさから、様々な逸話定評がある。
元々木村は他の選手の倍の6時間から7時間練習していたが、絶対に勝利するために辿り着いた結論が「3倍努力」である。
拓大に入ってからの木村の練習量は10時間を超えた。拓大での稽古だけではなく、他大学や警視庁、皇宮警察などを回って乱取り稽古をしていた。乱取り(スパーリング)だけで毎日百本をこなした。その後バーベルを使ったウェイトトレーニング、巻き藁突きを左右千回ずつした。
夜になると、師の牛島にならい大木に帯を巻いて一日1000回打ち込みをし、遂にはその大木を一本枯らしてしまった。
木村はこの全日本選手権の前後でも公式戦で負けておらず、15年間ものあいだ不敗を通した。
その鍛え抜いたパワーは、障子の桟の両端を持って潰すことができ、太い鉛の棒を簡単に曲げたという。また、都電に乗った際、悪戯で吊革のプラスチック製の丸い輪を五指で鷲掴みにし、端から順に割っていくことがあった。





同物同治の老人男性医師:家永カノ

モデル:殺人ホテル H・H・ホームズ  


H・H・ホームズは、「シリアルキラー」(連続殺人鬼)として記録された最初期の人物のひとりである。彼は27件の殺人を自供したが、彼が明かした「殺人の被害者」には存命者もおり、結局9件のみ立証された。
一般には200人もの被害者がいるとされている。
 シカゴで薬局を買い取り、近くに3階建てのホテルを建設する。
 “ ワールズ・フェアー・ホテル ” ここがH・H・ホームズの「 殺人の城 」である。
 業者に工事を発注してはわざと支払いをせず別の業者に発注するやり方で、複雑な建物を他人に知られずに建設できた。
 ・ガス室。
 ・アスベストの壁の部屋。
 ・拷問と解剖道具のある地下室。
 ・証拠隠滅のための硫酸銅の水槽。
 ・全室を行き来できる秘密の通路に覗き穴とスライド式の隠し扉。
 ゴールデンカムイで登場した仕掛け全てが実在した


ゴールデンカムイの登場人物モデル&元ネタ集(第七師団編)


大日本帝国陸軍第七師団:鶴見中尉

 

人物像のモデル:第七師団歩兵第二十六連隊長 須見新一郎

須見 新一郎
1939年6月以降のノモンハンの戦闘に第7師団歩兵第26連隊長として従事し、生き残ることの出来たわずか3人の連隊長の1人。
8月23日小松原師団長が指示した、わずか400人の兵力で敵側背に迫るという無謀な作戦を拒否し、小松原師団長、辻政信参謀の無謀な作戦計画に反対するなどもあり、ノモンハン事件後予備役編入となった。
ノモンハン事件について、戦後このように述べている。「(小松原師団長は)あのソビエト軍をなめているなというかんじですな。あまくみているということですわ。」「でたらめな戦争をやったのみならず、臆面もなく、当時の小松原中将およびそのあとにきた荻洲立兵中将は、第一線の部隊が思わしい戦いをしないからこの戦いが不結果終わったようなことにして、各部隊長を自決させたり、処分したりしたんですね。」「責任を負って死ねと。このようなことで、非常に残念なことですが、当時の自分の直属上司はもとより、関東軍と陸軍省も参謀本部も、この戦闘についてちっとも反省しておらなかったと思います。」

(他にもモデルになった人物がいるかもしれません。)




孤高の山猫:尾形百之助

 

  人物像のモデル:ベトナム戦争の天才的狙撃手 カルロス・ハスコック

カルロス・ノーマン・ハスコックII世
アメリカ合衆国の軍人、狙撃手。アーカンソー州リトルロック出身。ベトナム戦争で活躍したアメリカ海兵隊の狙撃兵の中でも、最も著名な狙撃の名手。「ホワイト・フェザー」の異名で知られる。
近代アメリカの軍事・警察組織における狙撃手の育成、運用についてのメソッドに大きな影響を与えた。
映画『山猫は眠らない』シリーズ…主人公であるスナイパーのトーマス・ベケット曹長のモデルとされる。

外見がだいぶ異なるので他にもモデルがいるかもしれません。


ちんちんぬきなっもしたなぁ:鯉登 少尉

  名前のモデル:第七師団 鯉登行一中将軍


鯉登 行一、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
1938年3月、陸軍兵器本廠付となり、1939年3月、陸軍少将に進級した。翌月、熊本陸軍幼年学校長に就任。1940年11月、第35歩兵団長として日中戦争に出征した。
1941年11月、陸軍中将に進み第7師団長に親補され終戦まで北海道に駐屯。1945年12月、予備役に編入された。

名前だけで人物像は特に一致する点が無い。
他にモデルになった方がいるかもしれません。